長らく懸案となっていた駒沢給水塔に関するコマQ制作の銘板が、給水所脇に設置されました。銘板の除幕式は平成22年2月24日にコマQおよび、世田谷区の関係者で行われました。みなさまもぜひご覧になってみてください。
※ちなみに、この銘板設置の工事が完成した日は、平成22年2月22日、双子の給水塔にとってはうってつけの日付でした。全くの偶然で、企んだわけではありません。
世田谷区弦巻2-41-5 駒沢給水所 通用門前
(東急田園都市線 桜新町下車 北口より徒歩7分)
【銘板】
横:1200mm 縦:720mm 銅板製エッチング仕上げ
上縁の高さ:地面より1600mm
【支柱】
50mm×50mmスチール製角パイプ
地下400mmまで埋込みコンクリートで固定
【見出し】
横書き 1文字の大きさ 縦35mm 横33mm
世田谷区に残された渋谷町水道の歴史遺産
【本文】
縦書き 1文字の大きさ 縦16mm 横16mm
(全文)
明治末期から大正初期にかけての東京市(当時)周辺は、人口の増加につれて安全な飲料水の確保が必要となり、上水道布設事業が相次いだ。特に人口増加の著しい豊多摩郡渋谷町(現渋谷区)では早くから具体化が進み、東京市の水道事業推進の重鎮であった中島鋭治博士に依頼して町営上水道布設の計画に着手、大正六年には実地調整を基に、取水地に多摩川河畔の砧村(現鎌田)を、中継の給水場に駒沢を選び、計画を取りまとめて認可を得、ここに世田谷を横断する大規模な水道工事が、国家事業並みの扱いで大正十年五月に着工となった。
中島博士の計画は、砧村に浄水場を設けて清潔な水を作り、ポンプの力で駒沢給水場に設置した給水塔に押し上げた後、自然重力で渋谷町へ送水する言う斬新な仕組みであった。工事は順調に進み関東大震災を挟んで大正十三年三月に全工事が完了した。
ここ給水場には、西欧の中世風の趣きを持ち、独特な意匠を施した二基の巨大塔が姿を現した。塔屋には王冠を連想させる装飾電球が付けられ、軽やかな特徴あるトラス橋で両塔が結ばれている。この独特な設計は二度のヨーロッパ出張で得た中島博士の卓越した土木建築デザイン感覚によるものである。同時期砧浄水場(現鎌田)には、緩速ろ過池の横、青い西洋瓦葺き屋根の上に、愛らしい四角錐の小塔を載せたユニークな送水ポンプ室が竣工している。なお昭和二年、ここ給水場には渋谷町上水道布設記念碑も造られた。
その後、関東大震災後の渋谷町の人口急増により、昭和六~七年にかけて取水場所の作り変えや、ろ過池の増設など大規模な拡張工事が行われた。その際砧の浄水場には取水ポンプ室、駒沢の給水場には送水ポンプ室が新たに建造されたが、いずれも優れたデザイン性に富み、昭和の名建造物といわれている。昭和七年十月、周辺郡部が東京市に併合されるのに伴い、渋谷町水道も東京市水道局に移管されて、その名は消えた。
戦後、東京都の水道局となってから、水道技術革新により浄水場は高度浄水施設への転換と給水場の地下埋設大型化が進み、大正・昭和初期の水道の姿を留めるものが極めて少なくなりつつある現在、数少ない例外ともいえるのが、駒沢給水塔を頂点とした多摩川河畔と駒沢の渋谷町水道遺産の数々ではなかろうか。豊かな緑の樹林の中に聳え立つ双塔の偉容は、人々に近代水道文明の歴史を語りかけているように思えてならない。
平成十四年、都水道局は老朽化の激しい布設記念碑の大掛かりな補修作業と併せ、塔屋の装飾球の復元やトラス橋の全面塗装換えでイメージを一新した。殊に塔屋の夜間点灯は、復元後今日まで、世田谷区民に貴重な近代化遺産をアピールする格好の風物詩となっている。
中島博士生誕百五十年にあたる今年、駒沢給水塔風景資産保存会と世田谷区は相携え、この地に残る世界的に貴重な近代化遺産を永く後世に残せるよう、都水道局の理解協力のもとに、思いを込めてこの銘板を作成した。
平成二十年十二月 駒沢給水塔風景資産保存会・世田谷区
【右側面】
(縦書き2行)
駒沢の双子の給水塔及び鎌田の砧下浄水場ポンプ室は、共に世田谷区風景づくり条例の地域風景資産に選定されています。
【左側面】
(縦書き1行)
この銘板は公益信託大成建設自然・歴史環境基金の助成で作成されたものです