駒沢給水塔について

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平成十六年 駒沢給水塔風景資産保存会作成
※やむをえず常用漢字を使用した箇所があります
※碑文原文には句読点は使用されていませんが、読みやすくするために保存会で付加しました
※( )内の読みと意味も保存会で付加したものです

澁谷町水道布設記念碑

「澁谷町水道布設記念碑碑文」澁谷町は東京府豐多摩郡の東南に位し、東西二十九町南北三十一町餘廣袤(こうぼう[面積])五百五十一町歩餘、地高燥にして形勝に富み最も住宅地に適せり。

是を以て東京市の殷賑(いんしん[盛んで賑やかになること])に伴ひて本町の繁盛歳々加はり、大正十年には戸數二萬三千一百十五戸、人口九萬一千一百七十四人を算するに致れり。

之を明治四十四年町制施行當時の戸數九千三十戸、人口三萬五千五百七十六人なりしに比すれは、誰か其の増加率の大なるに驚かさらんや。

然れとも由來本町の井水は、其の質不良にして飲用に適せさるもの多く、其の清澄なるものも量少くして毎に(つねに[いつも])涸渇し易き虞あり。

殊に戸口の増殖するに從ひ、衛生上にも防火上にも益々用水の缺乏を告け、水道の布設を促す聲大に喧傳(けんでん[言いはやし、伝える])せらるゝに致る。

偶々(たまたま[思いがけなく])大正二年七月本町は官廰より私設水道の布設に付き意見を徴せらるゝや、直に町會を開き特に委員を設けて可否を調査し、其の町營と爲すへきことを答申せり。

是れ本町か水道計畫を起てし始めなり。

爾來幾多の研究を重ねて氣運彌々(いやや[いよいよ])熟するに致り、大正六年十月二十一日町會は議員中より委員を選ひ、工學博士中島鋭治と共に先つ水源地の踏査を爲さしめ、之を北多摩郡砧村字鎌田の地先なる多摩川に需むる(もとむ[求める])を好適なりと決し、尋いて(ついで[間もなく])大正七年五月初め概要の設計を終え、同七月二十八日水道布設費總豫算として二百七十萬五千四百圓を可決したりしか後ち、設計を變更して企畫上に些の(いささかの[わずかの])違算なからしめんことを期し、其總豫算を四百九十六萬圓に更正して、大正九年七月七日重ねて之を町會に附議し、同八月三日に致りて全員一致原案を認め、茲に本町積年の懸案全く解決せり。

是に於て工事關係者は中島博士指導の下に孜々として(ししとして[努力して])諸般の手續を了し、周到なる準備を整へ大正十年五月八日起工式を擧けしより日夜工を急き、同十二年五月八日には通水式を擧け翌十三年三月十四日には駒澤給水場に於て盛大なる竣工式を擧行せり。

今其計畫の主なる點を擧くれは、多摩川本流の河底に構築したる集水埋渠に因りて其伏流水を引用したると、配水塔の強壓なる自然流下に由りて配水施設を爲したるとは、我國に於て未た曾て經驗せさる斬新の装置にして、其の有効最大水頭は概算百三十七尺に達し、一人に對する一日の給水標準量を四立方尺として、實に人口十五萬人に供給することを得るものとす。

惟ふに(おもふに[考えてみると])本事業は本町空前の壯擧にして、之か成否は一に本町の消長、町民の利害に繋る處なり。

されは之に關與せる人々の意氣大に緊張し、内外協力して日夜其の成功を祷り、竟に(ついに[とうとう])其の工程に於て十三箇月を速進し、其の工費に於て九十七萬圓を節約し、且つ大正十二年九月關東地方の大震災に遭遇したれとも殆と被害無く、却て工事の堅牢なるを證して衆庶の信用を博したるか如きは、蓋し(けだし[思うに])是れ當事者の至誠黽勉(びんべん[精を出す])の賚(たまもの[よい結果])と謂ふへし。

而して通水時日は僅に三年有餘に過きさるに、之を利用する者既に人口總數の七割五分に及ひ、其の經營亦順調に進めるは本町の幸福之に過くるものなく、町民の福利を享けて欣讃(きんさん[喜び讃える])己(はなはだ[たいへん])まさるものあるは洵に(まことに[本当に])偶然に非さるなり。

餘は今日其工事の完全なると、其の効果の顯著なるとを見て、斯の鴻業(こうぎょう[偉大な仕事])を企畫し之を成就せしめたる人士の功績を念ふこと益々深きを覺ゆ。

仍て茲に聊か(いささか[少しながら])本事業經過の梗概と、之に參與せし名譽職員の姓名とを刻し、以て千載(せんざい[永久])の記念と爲す。

昭和二年三月
東京府豐多摩郡澁谷町町長從六位勲五等 藤田信次郎