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杉浦真弓さんのケース


ももちゃんはレックリングハウゼン氏病にて、6歳 (小学1年生)の時に、背中の腫瘍が盛り上がってきて手術を受けるために病院に1ヶ月入院しました。 8歳の時兄のたけし君は、病院に面会に来て、付き添っていた母親に「ママはロボットだ」と言い、みんなをおどろかせたりしていました。

その後もももちゃんはたびたび入院がありました。たけし君が小学校5年生のときに、ももちゃんは2つ目の腫瘍摘出の手術と脊髄の側彎の矯正手術のため1年間入院をします。 それと同時期に3人目の子どもが生まれ、祖母が癌になり、半年で亡くなるという家族の激動の変化がおこりました。 その中で、たけし君は強い反抗を母親に表現していったのです。



【1】入院準備・きょうだい児への説明
【2】きょうだい児の強い反抗
【3】きょうだい児のストレス
【4】母親自身の精神安定
【5】きょうだい児の心配な行動
【6】病院・社会への要望
【7】インタビューを終えて



【1】入院準備・きょうだい児への説明


■入院準備・きょうだい児への説明
ももちゃんは6歳までは特に何の症状もなく過ごしてきたため、検診だけで様子をみてきました。 しかし小学一年生から腫瘍が背中に盛り上がり、手術へと向かいます。 それがこの家族の闘病の始まりでした。 この病気は進行にすごく差があり、症状のひどい子、ほとんど症状がでないで一生を終える場合もあり、困難性は個々によって違います。

たけし君が小学3年生の時にももちゃん(小学校1年生)が手術のために入院することになりました。 母親は「こういう理由で手術をしないといけない、その病院が○○県で、1ヶ月位入院すること、私も家を離れなきゃいけない、私は病院の側のホテルに住まなきゃいけない」という状況をたけし君に話したそうです。 たけし君は「うん、そっか」と言う位で、取り立てて騒ぐこともなかったようです。 その入院中はちょうど夏休みということもありたけし君の生活は、合気道の合宿に行かせるとか、おばあちゃん家に行くなど、毎年の夏休みとあまり変わらないように計画を立てることができたそうです。

病気について簡単な説明はお兄ちゃんにもしていて、例えば小さい頃からシミ(病気の症状・カフェオーレ斑)に関しては、“ももちゃんの可愛いシミ”って呼んでいて、「いいな、俺にも欲しい」とか言うくらいで、その程度の説明はしてきたんです。 すごく深刻な状態になる可能性があるかもしれないという話は、兄にも本人にもしていないんですね。 だからその時の症状と、その対処方法だけ2人には説明してきたんです。

お兄ちゃんも、病名とこれまでの手術とかはとりあえず知っていると思うんです。 今後どうなるかとか、こんなひどい可能性もあるとか、そういう事は知らないと思う。 お兄ちゃんにも本人にもどこまで説明しようかなといつも思いつつ、迷い、起こってもいない事を「こうなるかもしれないよ」と言うのは癌の告知とは少し違うように思えて、その程度にしてきているんです。

入院するまでの生活、ももちゃんも痛がったりもしない病気なので、入院する直前日まで全く普通に家族は過ごすんですよ。 いつもそうなんですけど。 だから会話も別にたけしとだけしているわけじゃなくって、普通にしてるんです。 その入院のスケジュールとかも全部みんなのいる所で話すから、親としては何もこう問題はないと思っているんですよね。


■親の心情
親としてはやっぱりその、ももが6歳の時にいよいよその「進行がどうも早いようだって」聞いた時、やっぱり親もすごくショックを受けたので、きょうだい児までは全然目も気持ちもいかない。 でも病気の子に気持ちがいっているのかというと、病気の子にも実はいっていなくて、その病気の事だけで頭がいっぱいで、そのショックだけでいっぱいだったんですね。

だから病気の子に目がいってて、きょうだいに目がいっていないんじゃなくって、たぶん今思い返してみると、両方にいってない位の衝撃だったと思うんです。 病気の子にすごく愛情や心情がいっちゃったという印象ではなく、もう病気の事だけでおろおろしてて、誰の事も見てない、見えてないみたいな。

きょうだいにどうやって話そうとか、何かそこまでの気持ちがなかったと思う。 だから子どもたちに現状だけしか説明が出来なかったんじゃないかと思うんですね。 子どもの気持ちに沿うとか、そういう余裕はやっぱり全然なくって。




【2】きょうだい児の強い反抗


■きょうだい児の強い反抗
この入院の時も、たけしが行くおばあちゃん達の家はいつも行っている家で、突然遠いおばあちゃん家に預けるわけじゃないし、合気道の合宿も毎年行ってるし、いつもの夏と同じような気持ちで行かせて、それで何の問題もないと思ってたんです。 そしたら3週間位経って、お父さんとおばあちゃんと一緒に○○県の病院に、夕方6時頃たけしが面会に来て、私も久しぶりに会ったんで、ああそうだこの子もいたなという感じだった。

たけしは3年生でもう大きいから、いつものように夏休みを過ごしたねという調子で私は接しようと思ったんです。 道路で、「久しぶりじゃん」と私が言ったら、何かこう表情がちょっと変で、たけしが「ママじゃない」と私の顔見て言うから、「ママだよって、忘れちゃったの」って言ったら、たけしが「ロボットだ」って。 「ママ、ママロボットだ、偽者だ」とかって言って。

妙な事言うなと思って、ふざけているのかと思って、「ママだよ、やだ変な事言わないでよ」とかって言ったら、「違う違う」ってすごい普通のごく当たり前みたいな顔して言うのね。 「これは偽者である」とか言って、「騙されないぞ」と言うんですよ。 それが別に泣いてるでもなく、特にすごく激しく言うでもなく、そういう感じだったから、皆ぎょっとしちゃって、何かやばいと思って、そうかやっぱりこの子もそんな衝撃受けてたのかなって、その時初めてびっくりしました。


■きょうだい児への対応
それまでは電話で話している時も、誰に対してもたけしは普通で、「楽しかった?」と聞くと、「うん楽しかったよ」と電話では言っていた。 電話は3日、4日に1回位していたかな。 「ももは手術したよ、元気だよ」とも報告していたんです。

でもいざ久しぶりに会ってみたらたけしがそういう状態だったので、一晩ビジネスホテルに泊まって、「今日はママと一緒のベッドで寝ようよ」とシングルの狭いベッドに寝ました。 それでもたけしは「ロボットなんかと一緒には寝られません」とか言っていた。 その日はずっとこう「ママロボットである」という事は変わらなかった。

次の日の朝起きたら、「あっ、ママが普通のママに戻っている」、「これは普通のママだ」とか言っちゃって、やっとこう偽者じゃないママにさせてもらった。 それで一日一緒に過ごしてたけしは帰っていったんです。 それがあってちょっと気持ちが兄に向く。 でもまだ私の気持ちはその病気の事で一杯で、全く変な事言っちゃってみたいな気持ちだった。 元々ちょっと変わった事言う子だったから、「たけしはおかしい事言うよね」位の調子だったんですね。


■捨てねこへの感情移入
その後4、5日で退院だっていう時に、また病院にたけしが来たんです。 その時はもうロボット扱いされはしなかったんですけど、ちょうど病院の門の所で捨て猫がすごい勢いで鳴いていたんですね。 私は猫がすごく好きだから、困ったなと思って。 拾いたくないのでなるべく見ないようにしていたら、息子がささっと行ってそれを抱いちゃったんです。

あの子はあんまりこれまで猫にそれほど興味がなかったんですよ。 両親が猫が大好きだから、逆に嫌だったくらいだったのが、もうその子猫を放さなくなっちゃって、「この子を連れて帰る」と言い出して。 地方の病院から東京へ連れて帰るという問題や、またその猫がノミだらけで、ものすごく汚い、もう病気だから長いことないという事もあって、私はもうこんな時に動物を増やすなんて冗談じゃないって。 家にはすでにその時に2匹いたんですよね。 もう2匹だけでも結構大変だったんだから、無視しようと思ったんですけど、父親が「いいじゃん、連れて帰ろうよ」って言うから、「えーっ」て、「私は何も出来ないよ」と言いました。

でもその時のお兄ちゃんの異常なかわいがり方が、やっぱりちょっと違うかなと思って。 それは後になって思うと、やっぱりその子猫と自分をどこかで、重ねてた所があるのかなと思ったんです。 そんな汚い子猫をハンバーガーの紙袋に入れて、東京まで持って帰っちゃって。その後も良く面倒を見て、これは僕の猫だとすごく可愛がったんですね。

つまりたけしは猫に救われたのでしょうね。 きょうだい児の意思表示があってから、母親はたけし君の心情もみなくてはと思ったようです。 しかしその後もももちゃんの手術が何回も続いたり、お腹に3人目のお子さんができたけし君中心に考えることはできなかったということでした。 その後たけし君もおちつき、成長していったようです。


■面会時の緊張
その時期は小児病棟だったので、子どもは病棟の中に入って面会することができなかったようです。 だから手術の日も手術室から出て来た時に顔を見ただけで、いつもガラスの向こうに居るももちゃんを見ているしかないのです。 ももちゃんが元気になってくると病棟から出て、病棟の外でたけし君と会えたそうです。

面会に来た時はやっぱりすごくよそよそしいですね。 何かどぎまぎしちゃっている感じで。何か自分の妹なんだけど、妹じゃないみたいな。 いっぱい管でつながって車イスにすわっている妹を見るのは照れくさい。 優しい言葉をかけたいけど、そんなの格好悪いみたいな様子ですごく緊張した感じでしたね。 だからそれがかわいそうだなと思って。 入院してるももはいつもと変わらないお兄ちゃんので平気なんですよ。 「わーっ」とか言って、喜んで喧嘩しようとするんだけど、お兄ちゃんはどうして良いのかわかんない。 やっぱりあの閉鎖的な病棟の雰囲気はきょうだいには辛いですよね。

その1年半後脊椎の手術をしたももちゃんは、ハローベスト(固定器)を装着することになりました。 その装着手術は整形外科病棟で行いました。その病棟は小児病棟よりも自由な時間に面会ができたようです。

たけしには『病院へ行こう』という映画の中でハローベストが出てくるんですが、前に見た事があったので「あれだよ」と言って、説明をしておいたんですね。 たけしは「ロボットみたい」とか、「何か宇宙人みたい」とか言っていました。 手術して何日かしてから「すごいのつけたから見に行こうよ」と言って、さんざん前宣伝をしておいて見たら「うわー」とか言って驚いていました。

でもどうなんだろう、ショックうけたというより、「すごいすごい」と騒いでたかな。 前宣伝しないで見たらびっくりしたかな。 私自身やっぱり手術室から帰ってきた姿を見た時は、わかっていたけど、鉄の鳥籠に入ってるみたいで、もうひどいもんだなっていう感じを受けたから。 やっぱ最初の頃の手術の方が家族は取り乱すし、手術と入院に親も慣れていかないと、きょうだいにまで目もいかない。 




【3】きょうだい児のストレス


■家族の激変
そのハローベストを装着した時は、すでに一年位入院をしていたので、家族が病気の子どもがいる生活に慣れていたようです。 しかしその同時期に、3人目の子どもが生まれる、おばあちゃんが癌になって半年で亡くなる、という変化がつづきました。

だからいつも私はいろんな病院を毎日はしごしていて、息子はその家族の変化と不安定さがすっごく辛かったようだった。 特に私の母が癌だってわかって、もうそれが末期の末期だって言われて、たけしは「おばあちゃん、あんな元気だったのに」とショックを受けていました。 そしてあっという間に大好きなおばあちゃんが亡くなっていくのを見てしまったんで、「時間が過ぎるのがいやだ」とたけしが言い始めた。 「どうして人はずっと同じ状態ではいられないの?僕は変わるのが嫌だ。前は良かった」とそればっかりいうようになりました。

考えてみれば一年前は、学校もクラス替えしてなくて、好きな先生で、ももも家にいた、赤ん坊も生まれていなかった、おばあちゃんも元気だったって。 それをしつこくしつこく一年間言い続けてました。 だから私が家に居る時はたけしが私にからみっぱなし。 ぐずってばっかり。 甘えようとして。 小学五年生なのに、もう床を転がって泣き喚くみたいな。 直接妹の事とかは言わないけど、何かこの宿題が何とかだとか、こんなご飯は食べたくないとか、たけしがものすごく取り乱してましたね。


■きょうだい児の精神不安定
たけしはすごく繊細な、気が小さく、新しい事に挑戦するのにはたいへん時間がかかるタイプの子どもでした。 あまりにうるさいから、私も病気のももにばかり掛かり切りになれないところが長い闘病生活の中には出てくるんですね。 最初は病気の事だけで頭いっぱいだった。それから病気の子どもの気持ちと、お兄ちゃんの気持ちと両方に目がいくようにはなったんだけど、ももよりもたけしの方に手間がかかるっていうか、たけしの泣き喚きに消耗していたな。 だから病気のももは元々の性格があっけらかんとしているから、あんたは大丈夫という感じでしたね。

今になって考えれば、たけしが泣き喚いてくれて良かったのかもしれないけれど、でもその時は、「もうお願いだからいい子にしてよ」っていうか、「お願いだからあんたはぐずらないで、病気にならないで、健やかに普通にしててよ」ということを口に出して言っていたと思うんです。 言わないようにしようと思うんですけど、ぐずぐずしていて、挙句の果てに「お腹が痛い」とか言い出すと、もう「だからママは早く寝ろって言ったでしょ」、「あんたまで病気になってどうすんの」とその時期ひどい事をたけしにたくさん言っていたと思うんですよね。 たけしからのストレスがすごくって。

でもまあ、向こうに言わせりゃ私のストレスも受け止めていたかもしれないけど。 だからこう戦い合いというか、そうゆう時期(たけし君が小学5年生〜6年生後半)があったな。 それでなくても反抗期が始まり、高学年として体が男の子だからすごく変わっていく時でしょ。 で、勉強もかなり厳しくなってきて、学校の管理もきつくなってくる。 その時期に重なっていたから余計でしょうね。

あの時はひどかったな。いつも病院に行く時、△△の駅降り立って、電車を背中にしながら病院に歩いて行く時に、こう気持ちがももの所に行きたいのと、たけしが気になる、それから赤ん坊がまだ生後6ヶ月位だから、三つに引き裂かれる。 それにプラスして死にそうな母がいるから、本当に体がバラバラになるようなそういう思いで毎朝行っていたのを強く覚えています。 だから何処へ行っていても落ち着かない。 ももの病院に行っても他のことが気になるし、たけしといてもそうやって戦い合いで罵り合いだから。 気の休まる時がない。

その大変な時期、ひっこしの間の間借りのつもりでお母さんの妹さんが同居するようになったそうです。 赤ちゃんの保育園の送迎、祖母の面会、ももの面会と妹さんなくしては暮らせなくなったということでした。 たけし君にとってもお母さんに言えないことを妹さんに言ったり、甘えたりすることができるようになったということでした。 たけし君は夕食をお父さんや妹さんと食べると事が多かったようです。


■小学校の配慮
たけし君はクラス替えで以前より厳しいタイプの先生の受け持ちになったのと同時に、家族の大変な状況が重なってしまいました。 担任の先生には、「家はこうゆう状況なんで、たけしも色々学校で変わった事を起こすかもしれないのでよろしくお願いします」という話は事前に何回もしていました。

またももの担任の先生がすごく良い先生で、よく家に来てたけしのようすを見てくれたり、病院にも行ってくれたり、職員室の色々な先生にも家庭の事情を話しておいてくれて、保健室の先生も良くそれを理解してくれていた。 ももの担任と、あと昔のたけしの担任と、保健室の先生とか担任以外の先生達がたけしに手をかけてくれて、廊下ですれ違うと、「大丈夫」とか「大変だね、偉いね」とか言ってくれたんで、外の支援という意味では大きかったと思うんですね。 その他によそのお母さんもそういう風にしてくれたんで助かったんですけど、あのー、学校の中ではたけしの担任の先生が親しみを感じさせない先生だったから少し困りはしました。


■実感できない妹の痛み
ももはたいした痛みの時は何も言わない。 余程ひどい時だけ大きな声で泣き喚いて、「こうしろ」と言って的確な指示をするような子です。 だから自分の痛みがどの程度のものか、こう言ったらこういう処置をしてくれるという事がわかっているのでしょうね。

それに引き換え、きょうだいはそういう事がもちろんわからないから、その妹の痛みも想像でしかないから、余計混乱しちゃうんじゃないかな。 自分の事じゃないから余計に。 無駄な心配をしたり、焦りを感じたり、不安なんでしょうね。 覚悟が出来ないんじゃないかな、その自分が病気の子の兄であるっていう覚悟。 親も受け入れるまでに何十年もかかるっていうけど、やっぱりきょうだい児もすごくかかるんでしょうね。

考えてみたら親より長くその子と過ごすんですよね。 成長しながら気づいていくんだと思うのね。 「あっそうか、やっぱり俺の妹は普通の子とは違うんだ」とか、「うちの家はちょっと変わっているんだ」とか、「普通の子は夏休みにはこんな風にするのに、俺ん家は出来ないんだ」とか。 それが発達とともに気づいていくから、そのたびに葛藤があって、暴れたり、泣いたりして、そういう事が出来ない子は心の中に秘めて、溜め込んでいっちゃうんですね。




【4】母親自身の精神安定


■夫婦のずれ
本当に大変な時期は、もものとこ行ってタッチして帰って来るみたいな。 どれも中途半端になり、心の中は乱れているので、付き添いしていても気が気じゃなくって、いつもなんかフワフワフワフワしていて、「何しに来たの?ママ」と娘によく言われていました。 自分では落ち着いているつもりでも、やっぱり家では取り乱していたと思うのね。 私なんかすごく自分が冷静だって自負してたんだけど、やっぱりももがひどい時は、どうも私もひどかったらしい。

自覚は全然ないんですよね。 だからある日、夫に「いいかげん取り乱すのを止めろ」って言われて、私は取り乱してないと思っていたから頭にきて、喧嘩になって、「取り乱してなんかいないわよ」と言ったら、「取り乱してる」って言うから、「冷静だって」と言ったら、「ちっとも冷静じゃない」って言われて、で、はっと考えるとやっぱりその日はももがひどい状態の時なんです。 そういうのをみて帰って来るから、もう帰りの電車の中では泣くのを堪えて必死で帰って来てるような状態で、でも家に帰ったら元気にしようと思っているんだけど、やっぱりそのすごい葛藤してる。 それと同時に、元気に振舞う自分が悲しいというか、私だって泣きたいとか、呻きたい気持ちが母親にもあって、それをこんなに我慢してるんだって。 それを誰もわかってくれないじゃないか、実は夫にわかって欲しかったんですよね。 それが夫が知らん顔して、普通にしてたりすると余計いらいらするから、そうゆうのがたぶん出てたんだと思う。 それで夫に結局私が言った事は、「だって今日はあんなにひどい娘を見てきて、取り乱すなって言うあなたは冷たい」とか言っちゃって。

要するに、「私はあんなひどい姿を見てるけど、あんたは見てないからそんな事が言えるんだって」喚いた時に、初めて、あっ、自分でつまり私が言いたいのは、「もっと私を慰めろ」と。 君も大変だねっていう事が、言って欲しいんだなっていう事がわかって、さんざん泣き喚いて、夫の前で。 さすがのあの夫も黙ってそれを聞いてくれたんです。 それですごく助かった。

自分だけが可哀想な親だっていう事で、たぶんきょうだい児に対しても言ってると思うんだけど、「もうママは忙しい」んだからって。 とにかく疲れているんだから、「疲れた、疲れた」って死ぬ程言って子どもに気を遣わせていたんじゃないかと。 今でもたぶん気を遣わせてるんだと思うんだけど。 子どもは「ママは疲れてるんだよね」とか、「今は忙しい?ちょっといい?」とかって言う。


■父親の存在
父親は理性的だけど、いつも子どもとふざけてばっかりいる人です。 子どもと良く遊ぶ人ですね。 それが家族の救いになっている。 ももが入院していても、どんなに手術がひどかろうと、お父さんはたけしを連れて美味しい物を食べに行き、映画も見に行くし、遊園地に行ったり、旅行も行っちゃうんです。

今になってそれはすごくいい事だと。 その時は「全くこっちがこんな苦労してんのに遊園地かい」ともももすごい怒ってたりしたけど、でもそうやってきょうだい児を、連れ出すというのは良い事ですよね。 そこまで考えてあの人がしたかどうかは知らないけど。 「病気の子がいるからって、しゅんとして暗い顔をしている必要は全くない」と言って。

病気でも今手術をしているという事は、治している事の一つですよね。 だから前に向かってるんですよ、一歩、二歩。 だから全然後ろに向かっているわけじゃない。 入院している時は少なくとも治している。 前進だと夫はよく言っていました。




【5】きょうだい児の心配な行動


■過剰な「いい子」
病気の子がいるもう一つの問題として、きょうだい児は過度に優しい子になってしまうというか、弱者にばっかり目がいく子に育つところがあると思います。 親もついつい「正義の大切さ」みたいなことを言って、障害のある子とか、いじめられている子、外国籍の子などの肩もつように育てているので人一倍正義感が強い。

だから学校に行っても、ももの事があるもんだから、たけしの親友はいつも外国人の子だったり、ハーフの子だったり、どこか障害があったりとかいう子と仲良くなっちゃう。 その頃も、メキシコから来た男の子で全然言葉のしゃべれない子がいて、その子を皆がいじめると言って、たけしはものすごい怒り狂ってしまって、それで担任の先生に言ったり、学級会で取り上げたり、そういう活動が始まっちゃって、学校でも戦っちゃって、でも上手くいかないというジレンマもある。 それで益々家に帰って来て、その事で何か泣きさわいでいました。

たけしは悪い事をしたんじゃなくて、良い事をしてるんだけど、それが過剰に出ちゃうんだと思うんですね。 やっぱり自分の妹の事と重なるんだと思うんですよね。 それは母親もそうかもしれないけど、いい意味でも悪い意味でも影響を受け過ぎてしまう。 親もやっぱり言い過ぎてしまう、「あの子を守ってちょうだい」ってどこかで言ってるんだと思うんですよね。

そうゆう風にしたつもりはないんだけど、母親を見ているのかもしれない。 親もほら、捨て猫拾うのが好きとか、そうゆう弱者に目がどうしてもいってしまうような人間だったから余計だと思うけど。 だからたけしは正義が強過ぎて、でもそのたけしの正義は正しいけれども、正義を通す時には色々な通し方があって、「自分には正義でも相手にとっては違う時もあるよ」とかって理屈で言うんだけど、なかなかわかんなくて。 親がね、やっぱり病気の事とか、病院や行政はについての批判をいつも口にしてるのを聞いているから、何か疑いの目も育っちゃうのかな。

だからきっとね一番下の子は一番ひどい時のももを見てない、これから見るかもしれないけど、やっぱり長男であるたけしの方が影響を受けてしまいますね。 やっぱり長男は過剰に親が取り乱してるのを見てる。 末っ子は落ち着いてからの親、病気に慣れてきた親やきょうだいしか見ていないから、かなり違うんじゃないかな。 気にしないで育つんじゃないかなと思うんですよね。 きょうだいの順番もあるし、年齢もある。 家の場合はどうもたけしに影響が全部いってしまう所があります。


■敏感なきょうだい児
あとこの前、中学生になって初めて行くお友達の家に遊びに行ったのね。 それでお家のようすから、お友達のきょうだいがどうも亡くなっていることに気づいたそうです。 やっぱりそれはきっとたけしが妹の経験をしているからで、他に行った友達は全然気づかなかったみたいなの。

たけしはやっぱり傷ついている自分みたいな奴も他にもいるんだなとか、死んじゃうなんて大変な事だろうなとか、色んな事をきっと彼なりに感じたのだと思う。 いつも自分の家だけが変で、他の家はみんな普通なのにと思ってたとは思うんですよね。 それがそうじゃないんだって。 他の人も辛い事とか、それぞれの家にはあるのかもしれないねって。 そのことを何回も私に話したり、パパに話したりしていた。 だから小学校の時よりも成長しているから言葉に出来たりしたんじゃないかな。

また妹の闘病のたいへんな時期に、難病児を支援しているNPO法人キッズエナジーとたけしは出会っています。 そこで他のきょうだい児と知り合ったことも、たけしにとっての成長の一つのステップになってると思う。 そういう経験を経て中学生になったから、そのお友達の家の事を知った時に、ああいう反応が出来たんじゃないかなと思います。

中学校1年生っていう年齢が、ちょっと落ち着いた気がする。 5、6年生の時よりはずっと落ち着いて、一歩大人になったっていうふうにパパとも話していて、あんまり取り乱さなくなってきた。 この先、体の成長とか色んな問題が出てきたらまた変わるとは思うけど。 ちょっとひと段落ではあるけれども、病気の事に関しても、あまり言わないで済んできた事もこれからは言っていかなきゃいけない事もでてくる。 その時にどうしようかなとは思うんですよね。 今度ももが手術するっていうふうになった時には、また違う伝え方が必要になる。 家族っていつも初体験だから、どうしたら良いのかわからないんですよね。


■きょうだい児に目を向けるきっかけ
私が初めてたけしの事を、きょうだい児って言うんだって思ったのは、えーとたけしが5年生だったかな。 ももが何回目かの大きな手術をする時にキッズエナジーのOさんと知り合って、その時に初めて気づいた。 Oさんがね、「きょうだい児もさ」って言う、きょうだい児って何だろうと思って、その言葉にピンとこなくて、しばらくしてたけしの事かと思って。

その時初めて、きょうだい児もそれなりのケアが必要なんだと認識したんです。 それまではその「ロボット」だとか「偽者」だとか言われても、自分の中で言葉にはなっていなかった。 この子にも目を向けなきゃ位で、なんとなく思ってた位で、難病児がいて、きょうだい児がいるという構図は私の頭の中にはなかった。 Oさんの言動を聞きながら学んだ事がずいぶんあると思います。言われるまで気づかないですね。




【6】病院・社会への要望


■病院への要望
最初に入院する時に、看護婦さんが何か問診で家族構成を聞く位で特に家族には何の対応もないですね。 面会も3時以降しか面会できないんだよね。 「お兄ちゃんは病棟には入れない」と無理な事ばっかり言うし、「夕方6時に手術の説明するから来てください」とか言うので、行ったら9時とか10時とか、ひどい時は11時まで待たされたりして、赤ん坊をどうすればいいの?と言いたい。 「きょうだいのことは病院のやる事ではない」と言われればそれまでだけど、やっぱり病院と家族の間に入る何か、病院併設のケアセンターとか、カウンセリングルームとか、もしくは行政がそういう事を立ち上げるとかしてくれないと、もう破綻を来たしますよね。 我が家はキッズエナジーや私の妹に救われました。

段々病気には慣れてはくるけど、進行しちゃえば、親はすごく落胆して、また戦うのかって。 また「よし」ってこうエネルギーを振り起こさなきゃいけないじゃないですか。 その時はエネルギーがもう底を尽いている様な時で、子どもの保育園をどうするとか、お兄ちゃんのご飯はどうする、ベビーシッターをどうする、時間が経っているから全部一からやり直さなきゃいけない。 どうしても前回をそのまま引用するわけにはいかないんですよね。

だからそうゆう時に、病気の子に対するボランテイアとか、きょうだい児の会とかを使えるのが何よりも心強かった。 全部一からやり直しが辛い。 具体的に、誰かが見てくれる、夕飯とか家事とか、飢え死にさせたりしない、洋服もね、きれいな物着せなきゃいけない事がまず大前提で、その次に心の問題とか、親がきょうだい児とたまに遊びに行ける時間をボランテイアさんを導入して作ってもらうとか、そうゆう事ですよね。

きょうだい児の問題を語るとやっぱりもう全体的な話になってしまう。 これから長い間きっと戦い続けるだろう、続けざるをえないだろう病気の子の心の問題と、私の心の問題と、あと家族にも「こうやったらいいんじゃないか」とか、「辛いよね」とか言ってくれるカウンセラーが病院の中にいると良いですよね。 病院にカウンセリングルームがある所もあるけど、問い合わしたけど全然駄目だった。 何か道は遠いなという感じがしました。


■社会への要望
保育園だって、末の子どもが2ヶ月位の時から探し始めましたが、「緊急保育というのは、緊急だから10日前になって言ってくれないと駄目だ」って区役所で言われました。 手術が決まっているから1ヶ月、2ヶ月先の事準備しておこうと思ってるのに、「10日前にもう1回申し込んで下さい」って言われて、でもその時に入れないこともあると言われて、当てに出来ないですよね。 そのあくまで緊急の為で、期間も1ヶ月。 だから我が家は、私立の共同保育所に本当にすがりつくようになって、でも保育料が6万位ですね。 ただ、「どうしても今日は7時半になる」とかって言うと対応してくれる。

ももの場合、仮退院したりとか色々な事をするもんだから入院も中断する。 そうすると公立を出たり入ったりできるかというと、恐ろしくってそこに踏み出せない。 何処も支えてくれる所は、きょうだい児に関して言ったらない。 だからそういう乳児とかがいた場合は皆無だと思いますよね。 お金がなければ誰も見てくれない。

あとはきょうだいが集まって、みんなで、「俺たちってこうだったよね」とか、何かそういう話をする場を設けてやらないと駄目だと。 やっぱり1人で抱え込んだら、うん、まずいな〜っていう、そういう会が必要ですよね。 難病児のきょうだい児の会。 同年齢から異年齢までいろんな人が集まって、遊んだりできるような。 そうすると、なんだお兄さんもそうなんだとかってね、気持ちが楽になるところが必要ですよね。




【7】インタビューを終えて

病気の子どもの面会、家族のたび重なる変化からわめき叫ぶきょうだい児、生まれたばかりのあかちゃん、死が近い祖母の病院と、どこに面会に行くのも体が引き裂かれる思いだったという話が特に印象に残りました。 お話をうかがってお兄ちゃんたけし君の抵抗が目に見えるようでした。

しかし、こんなにお兄ちゃんのことで大変な思いをしていても、人からきょうだい児の問題について語られないと気づかないものなのでしょうか。 「難病児がいて、きょうだい児がいる」という構図が自分自身の中にはなかったとおっしゃっていたことにすごく驚きました。 普通の家では問題行動ともいえる行動をおこしたきょうだい児がいれば、それ以降その子のことが気がかりのはずです。 しかし難病の子どもがいる場合、その子どもの方が心配ということです。 家族の中ではきょうだい児が意識されることは少ないようです。

しかしきょうだい児が不登校になったり、拒食症になったり、心の問題から社会から孤立している例はいくつもあります。 きょうだい児の存在について誰かが闘病中の家族に知らせていくことが必要なのでしょう。

また、お父さんの病気への前向きな考え方が参考になりました。 「病気でも今手術をしているという事は、治している事の一つ。 一歩、二歩前進している。後ろに向かっているわけではない。 入院しているということは前進だ」こういう考え方ができる家族は家族の力を強めることになると思います。 家族の病気の受容、適応それこそ支援が必要なのに困難な問題なのではないでしょうか。



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